アスイク 代表のブログ

こどもの貧困問題、NPOの経営、生き方在り方などについて。

インド紀行 Part1

2月2日から10日の間、国際交流基金(Japan Foundation)の日印社会企業家交流事業のメンバーとして、インドに派遣していただきました。

 

9日間の視察といっても、かなりの過密スケジュールであちらこちらを回り、10人以上の同行者が通訳を介して質問をするような状況。しかも、街中でのインタビューでは周りに野次馬のインド人が群がるような場面もあり(笑)、1対1で深く相手の声に耳を傾けるスタイルを好む僕としては、正直消化不良感が残っているのですが、出会った起業家や市井の人々などから感じた、僕なりのインスピレーションを少しでも紡ぎだせればと思います。

(情報の聞き間違え、事実と違う表記など多々ある可能性がありますので、その前提でお読みいただければ幸いです)

 

実はインドに来るのは、人生で2度目。海外旅行も2回目。つまり、インドにしか行ったことがないという不思議な人生なのですが、1回目のインドは大学生のときの1人旅でした。その時は、現地の怪しげな旅行代理店につかまり、自分がどこにいるかもわからない状態であちらこちらをひっぱりまわされたり、途中で捨てられたり、そのあともいろいろあって散々な目にあいまして、「インドなんて二度と行くもんか」と思ったものですが、まさかこんなカタチで再び訪れるとは、何とも奇妙なご縁です。

 

さて、初日に訪れたのは、デリーのスラム街。僕は勘違いしていたのですが、スラムには、公有地を無断で占拠しているところ、下水などのインフラが未整備なところ、人口密度が高いところなど、いくつかの定義があって、必ずしも掘立小屋が乱立しているような場所に限らないのだそうです。僕たちが訪れたスラムも、どちらかといえば環境の良い方で、石造りの建物が立ち並ぶ地域でした。

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MANZIL KE RAHENというNGOは、このスラムで子どもの教育と女性の自立支援の活動をしています。

路肩に面した建物の地下に入っていくと、20人くらいの子どもたちが集まっていました。

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この放課後教室には、学校には通っているけれど、読み書きなどに問題がある子どもたちが集められているそうです。

親も子どもへの教育には熱心でないことが多く、勉強をしている暇があるのであれば、少しでも働いて家計を支えてほしいと考えていることもあるようで、ソーシャルワーカーNGOスタッフが何回も親を説得して子どもを参加させると話していました。

これは、通訳として同行してくれた方から聞いた話ですが、インドの公立学校は教師の質が非常に悪く、授業中にろくに勉強も教えない教師もいるありさまにも関わらず、テストはやたらと厳しくて、半数以上が小学校段階でドロップアウトしてしまうのだそうです。

この教室、写真のとおり、石の床に大きな絨毯が広げられているだけの極めて質素なつくり。そこに子どもたちが座って、先生役のNGOスタッフから基本的な読み書きを教わるのですが、年長の子どもが下の子どもに教えたりと、子どもの主体的な関わりによって少ないスタッフの問題をカバーする工夫もされています。

子どもたちは生き生きとしていて、人を助けるために「医者になりたい」、「先生になりたい」、家族を養うために「軍隊に入りたい」(インドでは軍人のステータスが高く、軍人専用の保育所などの福利厚生も充実しているそうです)と、率先的に自分の夢を語っていました。「夢があったからここに来たのか?それとも、ここで夢を見つけたのか?」と訊くと、「ここで見つけた」と声を合わせた子どもたち。横や縦のつながりが、子どもの可能性を開くことを、改めて見せつけられた気がしました。 

 

この教室から少し離れたところあるのが、女性たちが手仕事をする作業所です。

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地域の主婦たちが集まり、空いた時間で手仕事をすることで、収入を得ています。といっても、1日に稼げるのは50〜100ルピー(90円〜180円)、月で1,000〜3,000ルピー。月10,000ルピーで中の下くらいの生活ができるらしいので、家計の足し程度の金額のようです。

むしろこの場の価値は、収入よりも相互扶助のコミュニティ形成でしょう。

女性同士がお互いに悩みを相談し合う場になっているだけでなく、セルフヘルプグループという共済の仕組みを取り入れており、ここでの収入の半分をみんなで拠出して、急な出費が必要になったメンバーに貸し出しをしています。日本の結にも通じる考え方ですね。

僕が印象的だったのは、女性が語った「安全」という言葉でした。女性が一人で仕事をしたりすると暴力を受ける可能性もある。そういった暴力から守られながら、仕事ができるのがこの場なのだそうです。

また、ある未亡人の女性は、「夫が亡くなった後に何もすることがなかったが、このNGOで電話受付や寄付集めなどの役割を見つけることができた」と語っていました。

社会的に弱い立場に置かれた人々が、つながり、お互いに助け合い、役割を見つける。そんな社会的包摂の場が生み出されていました。

 

僕にとって、このNGOの印象は、発見というよりも既視感に近かったかもしれません。

東日本大震災の被災地で広がっている子どもの教育サポート、女性たちの手仕事づくり。そこにいる人たちがインド人でなく日本人ならば、これは被災地の光景と重なるのではないか。やや極端ではあると思いますが、市民レベルの相互扶助はどこでも同じように広がっていくのだなぁとおぼろげに感じました。

もっとも、インドにもこういったNGOの根が広く張り巡らされていて、草の根レベルで相互扶助が機能しているということ自体が、僕にとっての発見だったということももう一方で告白しておかなければなりません。恥ずかしい話、インドで市民活動がここまで活発だとは思っていませんでした。(この後に紹介するivolunteerのラフールさんによれば、インドのNGO数は100万!らしい。もっとも、ちゃんと機能しているのは5万程度という話でしたが)

 

このスラムを後にして訪れたのは、インド有数のショッピングセンター。なぜショッピングセンター?という疑問はごもっともですが、もちろん、いきなり観光ではありません。貧富の差を体感するというプログラムの一環です。

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日本の大手デベロッパーも顔負けのショッピングセンター。日本でもよく見かけるテナントもたくさん入ってました。なんと、入り口のゲートでは手荷物検査もされます。インドの高度経済成長の一つの象徴、なのかもしれませんね。

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そして、このショッピングセンターと道路を挟んで向かい側に広がる光景。

ストリートチルドレンが何人も路上にいて、「マネー」と叫びながら洋服をひっぱります。写真左下の小さな子が、なぜか自分の子どもとオーバーラップしてしまい、ほんの一瞬、言葉にできない悲しみに襲われました。自分たちの物差しで、この子達を下に見るような考えをもってはいけないという気持ちを抑えつけながら。

 

次に会ったのは、インドで高等教育を受けた中間層以上のボランティアをコーディネートしているiVolunteer http://ivolunteer.in/index.html のラフールさん。(写真中央)

世界的な社会起業家の支援組織、アショカ財団のフェローにも選出されています。

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前述のとおり、インドにはNGOが数多く存在しますが、ほとんどは農村部で活動。中間層以上は関わらないという状況に対して、iVolunteerが媒介となって、都会の若者や大企業の役員などをNGOに橋渡しをしています。ボランティアを通して、農村と都市の分断をつなぎ合わせ、農村の問題を知った若者や企業人たちが、新たな取り組みをはじめることで社会に還元していく。そういった循環を生み出しています。

また、先進国から途上国へという流れとは逆の、途上国から先進国へのボランティアの流れも生み出しているそうです。

おそらく彼が仕掛けているのは、異なる立場におかれた人々の間で経験の交流を促し、そこから新しい問題解決の動きが生まれる火種をつくり出すことなのだろうと認識しました。

僕個人の関心は、なぜ彼が広大なインドで中間層が農村部へボランティアをするという動きを広げることができたのか、ということだったのですが、ラフールさんによれば、「たとえばデリバリーなど、基本的で大事なことをもっとよくしたいと改善しつづけた結果であり、クリエイティブでフレックスでモチベートされたスタッフを邪魔しないことであり、スケールアウトしなければならないというプレッシャーを反動にして実現したことではない」とのこと。常々大きな目標とのギャップにばかり目を向け、意識的にも汲々としている僕にとって、この彼のリーダーシップに触れられたことは救いにも似た感覚を与えてくれたと思います。ギャップに目を向けるのではない。あるべき品質と、事業を推進する人に意識を向ける。その先の結果は、単なる結果なのだ。そんなメッセージを(勝手に)得て、この場を後にしました。

 

〜Part2につづく〜

「あたりさわりのない第3者」の価値

物腰のやわらかな素敵なNPO法人の理事長とお会いしました。

 

ちょっと精神的に疲れてしまったり、いろいろな問題を抱えている大人や若者の就労支援をしているNPOで、その方も精神保健福祉士の資格をお持ちです。

(念のために書いておきますが、僕がカウンセリングをうけたワケではないですよ)

 

その素敵な理事長さんが言うには、うつや引きこもりなど、いわゆるメンタル不全の芽のようなものは、中学生ぐらいから生まれ始めるのだそう。

 

ニートや引きこもり、あるいは精神的な問題をかかえている大人、若者を見ていると、若いうちにその傾向があった人も決して少なくないというお話でした。

 

その原因はさまざまでも、誰かにSOSを投げられたり、本音を聞いてもらえたりすることが、メンタル不全の芽を伸ばさないために有効らしいです。

 

でも、そういう年代の子どもって、親はもちろん、「評価する人」として利害関係のある学校の先生にもなかなか本音は話さない。

(たしかに自分もそうだったなぁ〜と、可愛さのかけらもない少年時代を思い起こします)

 

時にスクールカウンセラーでさえも、利害関係のある「学校側の人」とみなされることも少なくないとのこと。

 

じゃあ学校の友達は、というと、これは関係の濃淡によってさまざまだと思いますが、友達こそ最大の利害関係者である場合も少なくないでしょう。

 

多くの子どもにとって、親、学校の先生、友達(先輩後輩)が人間関係のトライアングルで、この三角形のどの頂点にもはじき飛ばされてしまうと、真ん中でじっとうずくまるしか(あるいは暴れるか)しかなくなってしまいます。

 

これは現代っこ、多くに当てはまる状況だと思いますが、お金の問題や、それに付随する親子関係の問題など、複雑に入りくんだ状況で生活している子どもは、なおさらこのトライアングルがうまく機能しにくいのが、現実でしょう。

 

そんなときに必要なのが、「あたりさわりのない第3者」。

あたりさわりのない、という表現が最適かどうかはわかりませんが、本音で話しても大して不利益にならない人であることが重要なのかもしれないと思います。

 

もちろん所詮は他人なので、だからといってホイホイと本音をぶちまける子どもはいません。でも、ずっとあたりさわりのない関係を続けていくと、ぽろっと本音がこぼれることがあります。

 

その「ぽろっとこぼれた本音」を評価するわけでもなく、無用なアドバイスをするわけでもなく、ただ一生懸命聞いてあげること。それが、メンタル不全の芽を伸ばさないことにつながります。

 

私たちの組織で、子どもとかかわりを持っているボランティアのみなさん。みんな素晴らしくマジメで、素晴らしくマジメであるがゆえに、時として自分がやっていることに悩みや迷いを感じてしまう方もいます。

 

でも、そんなときには、まず『学校の先生でもなく、親でも友達でもない、「あたりさわりのない第3者」である自分そのものに、すごく大きな価値がある』。そう思ってもらいたいな、と。

『「ぽろっとこぼれた本音」を、ちゃんと拾って、でも評価もアドバイスもせずに、聴いてくれることに、さらに大きな価値がある』。そんな風にとらえてもらいたいな、と。

成果を定めることについて

今日は、「NPOがきちんと成果を定めることの大切さ」について書いてみたいと思います。

 

こんなことを書こうと思った発端は、うちのボランティア(Yさん)から就職試験について相談されたこと。

 

Yさんは、中小企業をサポートする外郭団体の試験を受けています。話の流れで、僕はその外郭団体の問題点を指摘しました。

 

「この外郭団体は、中小企業の販促支援でイベントをやっているが、その結果を単なる参加企業の売上、マスコミの取材件数でしか効果測定をしていない。というか、これは効果測定ではない。本質的には、たとえばリピーターの獲得数、口コミの発生数、半年後の売上変化などを調べて公表すべきではないか。ただ1回きり売上が立つようなことをやっても仕方ない。このイベントがキッカケで、継続的な利益向上につながり、結果として税収が増えたり、雇用が生まれたりすることが、この外郭団体がなすべきことではないか。

なぜなら、税金を投入して運営しているのだから。税金を投資するなら、それを上回るリターンを出さなければならない。それが、この外郭団体が掲げるべき成果のはずだ。

予算消化型で動く組織は、きちんとした成果目標を追わなければ、腐敗する。そうしないと、とにかくやればいい、報告書を出せばいい、となってしまう。単なる税金を浪費するだけの組織に堕ちていく」

 

まぁ、なんとも偉そうなことを言ってしまいました。しかも、相談内容からかなり離れている(笑)。

それはともかく、ふとわが身を振り返って、変な汗が出てしまいました。僕たちは、日々の情報発信や事業報告書の作成、会計資料の公開は、かなりいい感じでやっている組織だと思ってます。いや、ました。

でももしかすると、この外郭団体とそう違わないのかもしれない。

-何か所の拠点で活動していて、何人の子どもが参加している。

-何回研修会やイベントをやって、何人のボランティアや子どもが参加した。

発信している内容の多くは、だいたいこんなもんです。

日々の活動に埋もれると、それでいいと思ってしまうんですよね。こんなにも活気のある場が生まれていて、笑顔が生まれていて。僕たちは、周りから借りた資源をつかって、こんなにいいことやってるんだ。そんな自負をもつのは、自然なことだし、ある意味では健全なことでしょう。もしかすると、この外郭団体で働く人たちも同じ感じなのかもしれません。

でも、それはベストなことなのか。社会のリソースを借りて活動しているならば、誰に対してどんな良い効果を生み出していて、将来的にどんな効果を生み出す可能性があって、どんな形で社会に還元できるのか。そんなことを、できるだけ説得力のある指標できちんと測定して、発信して、常に改善していく必要があるのではないか。

 

こんなことを思っているとき、たまたまインドで生まれたグラスルーツ・イノベーションの記事を見つけました。そこには、こんなことが書いてあります。

 

「生理用ナプキンの不足によって途上国の女性は年間50日、人生のうち5年間分の学校で勉強する時間や仕事に費やす時間を失うと一般的に言われています。3ヶ月間で1,000枚の生理用ナプキンを販売することで、農村の女性たちが学校に通う時間、仕事に費やす時間を生み出します。」

 

これが完ぺきだとは思いませんが、生理用ナプキンを途上国で普及させることによって、教育や労働への好影響が生まれること、それが一応具体的な数字で表されていることは見習うべきだと思います。おそらく、もうちょっと時間と専門知識を投入すれば、これがどう社会経済へ還元されるかを提示できそうな気がします。

単に、生理用ナプキンが何枚普及して、女性の生活の質が向上する、というだけにとどまらず、その周辺の社会への影響にまで言及する。投入されたリソースを上回るための成果指標を設定できていれば、単なる同情を越えて、当事者以外の人たちがさまざまな資源を投資する動機が生まれる。

もちろん、同情というか、感情に訴えることは重要なのですが、それで動けるのは一部の人で、さらに遠心力のある動きにはなりにくいのだと思います。

 

きちんとした成果指標の設定と測定が重要な理由は、社会的課題に対してリソースを集めたり、貸し手への説明責任を果たすため、あるいは組織の堕落を防ぐためだけではありません。

 

ちょっと話は変わりますが、湯浅誠さんは著書「ヒーローを待っていても世界は変わらない」(朝日新聞出版)で、こんなことを書いています。

 

「障がいを持っている兄は、税金が投入された社会福祉法人で働いていて、税金が原資の障害年金ももらっている。それを既得権益だと切り落とせば、兄は家に引きこもり、一緒に暮らす母や地域とのつながりやそこで生まれていた消費活動も失われ、母も精神的に参ってしまい、自分も家にはりつくことで、結果的により多くの経済的活動がなくなる」

 

ここから考えられるのは、既得権益だと切り離されるリスクをより強く背負っている社会的弱者を守るためにも、成果指標の設定と測定は必要なのだということです。

たとえば(現実的にそれが可能かはさておき)、この社会福祉法人が投入された税金を活用して、障がいを持つ本人やその家族も含め、どれだけの経済活動を生み出しているか、守っているか、という成果指標を設定して、測定・発信していくことで、障がい者の雇用に税金を投入するのは怪しからんと息巻く人たちを打っちゃることもできるかもしれない。

(念のため、湯浅さん自身は、すべてをお金に換算することを決して良しとしていないことを補足しておきます)

 

さて、ちょっと感じたことをまとめておこうと思ったら、ズルズルと話が伸びてしまいました。

なにはともあれ、僕たちも「良さそうなこと」をやっている組織からの進化を、そろそろ本気で考えなければならなそうです。

ちなみに、こういったことに関係しそうな概念として、Social Return On Investment(SROI)というものがあります。おっと、この話を書き始めるとまた長くなりそうなので、また改めます。