アスイク 代表のブログ

こどもの貧困問題、NPOの経営、生き方在り方などについて。

ジュディとの出会いと別れ

きっとどの起業家・経営者にもある、「恩人」との出会い。

 

僕自身も、この8年でたくさんの恩人とめぐり逢い、助けられ、生かされてきました。

その一人に、ジュディという女性がいます。

 

2011年秋、法人化したばかりのアスイクは、仮設住宅で子どもたちの学習サポートを行なっていました。でも、その何倍もの方々が生活していたのが、そこらじゅうの賃貸住宅が仮設扱いになっているみなし仮設。じゃあ、みなし仮設で暮らしている子どもたちの居場所もつくらねば、と考えたものの、どこの馬の骨ともわからないNPOに、しかも不特定多数のこどもが集まる場所として貸してくれるオーナーは多くありません。

 

どこでもよければ貸し手もいたと思いますが、あちこちに散らばっているみなし仮設の子どもたちが来やすい場所となると、仙台駅近くでなければならなかった。そして、そんな利便性のよいテナントを借りれる資金面の余裕は、当時の私たちにはありませんでした。

 

そんなとき、不動産会社の方から紹介していただいたあるテナント。仙台駅の隣駅からすぐ、広さも十分で、目の前には公園。ここしかないと思ったものの、家賃は提示されいている価格の1/3しか出すことができなかった。案の定、オーナーさんからは断られてしまいました。

 

でも、ここしかない!という思いに駆られた僕はあきらめきれず、テナントの2階に住んでいるオーナーさんのお宅を訪問。もう断られているのだから、別に失うものもない。万が一借りられたら、それを必要とする子どもたちの役に立つんだから、怒られるかもしれないけどやってみよう。そんな風に自分を奮い立たせ、新聞記事のスクラップ片手に、オーナーさんに頼み込んだ記憶があります。

(注:オーナーさんに直接アタックするのはルール違反。これをやると不動産会社からはめちゃくちゃ怒られるのでマネしないでください)

 

その数日後、不動産会社の方から電話。「オーナーさん、OKでましたよ」。

後から聞いた話では、オーナーさんは迷っていらっしゃったのですが、奥さまが貸してあげなさいよ、と背中を押してくださったそうです。その奥さまが、ジュディでした。

(この不動産会社の方も有名な方で、こんな失礼な若造を怒りもせずに支えてくださった恩人のひとりです)

 

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(当時借りていた学習支援拠点兼事務所。初めて借りることができた場所でもある)

 

ジュディは、ご自宅を開放して個人の英語塾を開催していました。同時に、その地区の主任児童委員も担っていました。そして、歴とした日本人です(笑)。

 

私もボランティアに参加していいかしら。控えめに声をかけてくださったジュディは、その日から毎週火曜日に1階のテナントにやってきて、子どもたちに英語を教えてくれました。

 

やんちゃな子どもに「何て呼べばいい?」と聞かれ、「プリーズ・コール・ミー・ジュディ」と答えたジュディ。その日から、彼女の名札にはジュディの文字が入りました。

 

いつしかジュディが来る日は、食事つきの学習会となりました。料理が得意なジュディは、2階の自宅でつくった料理をたくさん持ってきてくれて、子どもや学生のボランティアにふるまってくれたのです。こども食堂が広まるずっと前から、アスイクの学習会にはそんな光景が広がっていました。

 

深夜に仕事を終え、帰宅しようと自転車にまたがったとき、「シチュー持って帰らないー?」と2階の窓から声をかけてくださったジュディの顔がよみがえります。

 

その場所での学習サポートが一区切りついてから、ジュディの顔を見ることはめっきり少なくなりました。

ジュディが癌になり、闘病している。

だいぶ後になってから、その事実を知りました。

そして、お亡くなりになったと聞くまでに、それほど時間はかかりませんでした。

2014年7月のこと。

 

民生児童委員対象の研修を準備していて、ふとよみがえった記憶でした。

 

ジュディのおかげで、8年経ったいまも、こうしてアスイクがつづいています。

感謝の気持ちしかありません。

ありがとうございました。

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(右手前の女性がジュディ。やさしさがにじみ出ているような方でした)

子ども食堂は、虐待予防の砦となるか。

11月は「児童虐待防止推進月間」なんですね。

年末にかけて虐待が増えるからなのか…と思ったけど、そうではないみたい。

ざくっと調べただけなので間違っているかもしれませんが、厚労省児童虐待防止対策協議会が設置されたのが平成11年11月だからのようです。

 

背景はさておき、啓発活動の一環として、各地で開催されるフォーラム。

何の因果か、子ども食堂をテーマにしたパネルディスカッションにお招きいただきました。率直に言って冷や汗ダラダラですが、思考の整理もかねて子ども食堂が虐待問題にどう貢献するか、考えをまとめておきます。

 

個人的に、耳にするたびにモヤっとする「虐待」という言葉。マスコミで取り上げられる事件のイメージもあって、虐待は、糾弾すべきもの、一部の異常な親がやること、という受け止め方が強い感じがします。

でも、虐待への過剰反応は、子育てに難しさを抱えている親を社会から孤立させ、親の負の感情が子どもに向かってしまうサイクルを助長しかねない。それに、虐待は自分の“外”にあるという考えは、我が事として虐待が生まれにくい社会をつくっていくことにつながらない気がします。

虐待は、もっと幅の広い行為であって、程度の差こそあれ、誰にでも起こしうる可能性があるもの、と捉え直す必要があるのではないかと思うのです。

「実は子どもを虐待してしまっているかもしれない…」、「いやいや、実は自分も昔はね…」と、虐待を口にしやすい社会をつくっていくことが、究極の虐待対策なんじゃないか。

ただ当然、法的な裏付けをもって介入しなければならない、緊急性の高いケースもあります。大切なのは、「緊急性の高い虐待」、「誰にでも起こし得る虐待」の両面から、この問題を捉えていく視座ではないかと思います。

最近は、虐待に代わるものとして「マルトリートメント」(子どもを怒鳴るなどの行為も含めた、不適切な養育行動の総称)という言葉が注目されていますね。ここでは虐待という言葉を使いますが、マルトリートメント的な意味合いを含めて使っていると認識いただければ嬉しいです。

 

さて、本題に戻りまして、 子ども食堂が虐待予防にどう貢献するか。

これまた子ども食堂と一口に言っても、共生型食堂、ケア付き食堂といった大まかな分類があり、さらにそれぞれに、受け入れ年齢層、子ども以外の参加者の有無、開催頻度、時間帯、料金設定、実施場所、スタッフ体制、プログラム、(子ども食堂を使うか否かの)名称など、多様な要素があって、要は一口に言えません(汗)。

なので、とりあえずシンプルに、月2回程度、夜に公民館をつかって開催していて、主に低年齢の子どもと保護者が利用する、無料の食事とだんらんを提供するような子ども食堂を想定します。

図:虐待対策に子ども食堂が貢献できること

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まず右下。保護者が参加する子ども食堂では、ここが虐待予防にもっとも貢献できることだと思います。澱のようにたまった保護者の不満や不安をはき出してもらったり、受け止める。それで保護者自身の気持ちが軽くなったり、自分の行動を振り返る余裕が生まれる(心のスペースづくり)。

さらに、同じような悩みを抱えた保護者同士がつながって、お互いを支え合う関係が生まれることで、上のような心のスペースづくりがもっと持続的なものになる。

実際に、他県からほぼ一文無しでやってきた母子家庭が緊急支援的にこども食堂につながり、他のシングルマザーから「ここの公営住宅はおすすめ」、「あそこのスーパーは安い」など、当事者ならではの生活情報を教えてもらうような場面もありました。

以前、学生ボランティアから「子どもをダシにして保護者が子ども食堂に来るのは、保護者のための子ども食堂になってしまって、よくないんじゃないか」と言われたことがありますが、保護者のための子ども食堂、大いに結構じゃないですか。

表現の良し悪しはさておき、むしろ子どもをダシにして集える場所だからこそ、子ども食堂は良い取り組みなんじゃないかと思います。私たちも、保護者向けの茶話会とか、自治体の委託でひとり親向けの講座とかやってますが、いつもものすごく苦労するのが集客。特にひとり親に顕著ですが、ただでさえ忙しい保護者が物理的に集まるのって、かなりハードルが高いと痛感してます。

 

次に左下、親から好ましくない関わり方をされている子どもに何ができるのか。やはり、その気持ちを受け止めることは大事だと思います。たとえば、親に怒られた、誰も自分の気持ちをわかってくれない、といった感情を受け止めることで、心にスペースが生まれるのは子どもも同じですし、それが子どもの発達にとって望ましいことであるのは言わずもがなです。

ちょっと難しいのは、親がいるスペースではなかなか口にできないこともあるかもしれないこと。食事後のアクティビティの際には、保護者と子どもを別の空間に分けるような工夫も必要かもしれません。

子ども食堂の良いところは、何と言っても食事という子どもと仲よくなるための強力なツールがあることだと思います。ご飯を一緒につくるという共同作業、ご飯を同じテーブルで一緒に食べるという物理的な近さと時間。特別なスキルがない人でも、子どもと距離を縮められる要素が詰まっているなぁと改めて関心します。普段現場をもっておらず、子どもたちから見れば「誰だこのおっさん」状態の僕でさえ、年1回のキャンプではかなり子どもと打ち解けることができるのは、自然の解放感もあるでしょうが、一緒にご飯をつくり、同じテーブルをかこむ時間があることの効果が大きいです。 

子どもに対してできることのもう一つは、見守りです。見守りというと色んな意味合いがありますが、たとえば普段の家での過ごし方、子ども食堂での精神状態や健康状態、発言や行動の内容など、さまざまな角度から子どもの様子を観察しておくことで、異変があったときに早めに気づき、保護者のケアをするなどの対応が可能になるでしょう。気をつけなければならないのは、やりすぎは逆効果になること。家で困ったことがないか執拗に子どもに尋ねたり、ちょっと膝をすりむいているのを見て大ごとにするような子ども食堂は、親の立場になれば御免こおむりたくなりますよね。

見守りに関する実例を紹介すると、数年前にちょっと複合的な課題を抱えているご家庭の子どもが参加していました。 子どもがある事件を起こしたことをキッカケに、要対協(要保護児童対策地域協議会。地域の様々な機関による子どもの見守りネットワーク)に私たちも参加して、子ども食堂での様子などを情報提供しました。往々にして、子どもは学校では見せない一面を持っていることがありますし、そもそも不登校の子どもであれば誰も子どもの様子がわからない、ということもあります。生活保護ケースワーカーも、親とは面識があっても、子どもとは会ったことがないという話もよく聞こえてきます。子ども食堂しか知らない子どもの情報があることも少なくないでしょう。

 

虐待対策としてこども食堂を見るときに難しいのは、上段の二つ。子どもが日常的に暴力を振るわれている、頻繁に食事を与えられていない、家から追い出されている、性的な被害にあっている…。そういった緊急性の高い場合に、どうするか。

保護者に相談機関を紹介して、それで解決するならば、誰も苦労しません。よっぽどの関係ができていなければ、どこそこの機関に行ってみたら、と言った瞬間にばっさりとシャッターを下ろされて、そこで子ども食堂とその家庭の関係はおしまいです。

じゃあ、児童相談所に通告すればいいか。確かに、要保護児童の通告義務は児童福祉法第25条にも明記されていますが、児相に通告してすぐ問題解決というケースは、残念ながらほとんどない気がします。たとえば、こんなケースがありました。

 

親からの虐待を訴えてくる子どもがいる。でも、どこまでが本当でウソか分からない。児童相談所に通告しても、相手にしてくれない。そうこうしている間にも、子どもは次々に窮状を訴えかけてくる。対応を間違った結果、親とももめてしまい、毎日のように怒り、脅しのメールが送られてくる。何もできないことに、スタッフが自己否定に苛まれ、疲弊し、組織もギスギスしていく。一体、どうすればいいのか…

 

ネグレクトが疑われる子どもがいる。本当の可能性が高いと思われるけど、もしかすると事実じゃないかもしれない。そして、この家庭に関わっているのは私たちしかいない。児童相談所に通告すれば、確実に通告元がばれ、家庭との関係が切れてしまう。そうなれば、子どもの唯一の居場所、社会とのつながりがなくなってしまう。子どもが居場所を失うリスク、ネグレクトを受け続けるかもしれないリスク、どちらに対応するのが正解なのか…

 

いずれのケースでも必要なのは、専門性をもったスタッフと対応に費やす時間、そして関係機関との連携によるチームアプローチです。今でこそ、私たちの組織には優秀なソーシャルワーカーがいて、児童相談所をはじめとした地域の機関とのネットワークもあるので、上のようなケースにも組織的に対応できるようになりましたが、そこに至るまでには無数の痛みがありました。こちら側が精神的にまいりかけたのも、一度や二度ではありません。

それを草の根の市民活動である子ども食堂に求めるのは難しいかもしれない。子ども食堂の約半数は、個人やボランティアグループが担い手です(出所:「地域社会におけるセーフティネットの再構築に関する研究 調査報告書」、阿部・千葉・村山、2018年)

 

保健センター、コミュニティソーシャルワーカー、子育て世代包括支援センター、子ども家庭総合支援拠点、子ども若者総合支援センター、地域の社会資源の実情に応じてさまざまな可能性があるとは思いますが、子ども食堂に緊急性の高い虐待への対応を期待するのであれば、子ども食堂が受け止めきれないケースをサポートする機関・担当を明確にすることは不可欠だと思います。

 

※本文ではいくつかの事例を紹介していますが、いずれも実際のケースを組み合わせて創作したものであり、特定の子どもや家庭を取り上げたものではないことを補足しておきます。

「分かりにくさ」こそ大事な、貧困問題

このところ、コンスタントに「こどもの貧困」をテーマにした講師のご依頼をいただいています。

2008年頃から急速に社会的な関心を集めてきた、こどもの貧困問題。そのうちトーンダウンしてしまうんじゃないかといつも不安を感じていますが、実感値としてはまだまだ関心の高さは持続しているし、講演などでは、既にこどもの貧困問題の概略的なことを知っている方も増えた気がしています。

 

先日も、シニアが参加する講座でお話をさせていただきました。

日本の貧困の定義が、「所得が高い世帯から低い世帯まで右から左に並べて、真ん中にいる世帯の半分以下の所得で暮らしている方々」と話したところで、首をかしげる反応しか返ってこないことは良くわかっているので、最近は家計のミニワークをセットにしています。

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真ん中の世帯(月の可処分所得34万円)の半分である17万円に収まるように家計簿をつけてみることで、どれだけ貧困線以下の生活が大変かを実感してもらうことが狙いのワーク(出所:「子どもの貧困ハンドブック」p64,65、かもがわ出版)。

3分くらい考えてもらうだけでも、会場のほとんどが「こりゃ大変だ」とざわつきます。そしてこれは、決してそう発言された方を非難する意図ではないと前置きをしますが、「母子家庭は優先的に入れるんだから、公営住宅に住めばいい」、「車は贅沢だから、手放せばいい」といった声も聞こえてきます。

 

確かに、家計のやりくりだけ考えれば、そのご意見はごもっともかもしれません。

しかし現実には、そこには人の生活があり、感情があります。

 

車がなければ、通勤できなくなったり、子どもの送り迎えもできなくなる人もいる。
公営住宅に入れば、学区が変わって子どもが転校しなければならなくなる人もいる。

たとえ上のような生活上の困りごとが発生しないとしても、
そこには、自分は車をもつということを諦めなければならないんだ、という痛みがあるかもしれない。
自分は、自由に住みたい家を選ぶことを諦めなければならないんだ、という悲しみがあるかもしれない。

 

以前、私たちの研修で語ってくれた、当事者の若者たちのことばがよみがえります。

 

本人曰く「親からのえぐい虐待」があり、児童養護施設で育った若者のことば。

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自分は施設で育ったから、経済的に大変だという感覚はなかった。

けど、友達とあそぶ時にはコンビニでお菓子を買うお金がなくて、「財布を忘れた」とか「おなかがすいてない」と言って、その場をしのいでいた。

「一口ちょうだい」というのが多くなって、「またかよ」と言われるときはやるせない気持ちだった。

最近は、施設でも何もしないで、ただ寝てるだけのやつがいる。

何か大きな出来事があってそうなるんじゃなくて、細かいことの積み重ねがあって、動けなくなるんだ。

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高校生の時にうつ状態になり、高校中退した大学生のことば。

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祖父母が援助してくれていたから、生活に困った記憶は特にない。

でも、中学に入るころくらいには、子どもながらに、うちはお金がないから経済的な負担はかけられない、と意識していた。

進学するならば国公立しか選択肢はないと思っていたが、目指す目的もはっきりせず、努力してハードルをこえる自信はなかった。

祖父母の援助に頼っている親に対して、尊敬できない気持ちも抱いていた。

だから、早く自立したいという思いがあった。

就職も考えたけど、自分が社会で生きていけるのかという不安があった。

将来への不安感や行き詰まり感がたまって、うつ状態になっていった。

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この2人のことばから改めて感じたのは、私たちが関心を向けなければならないのは、「無いこと」そのものではなく、そのことによる子ども(あるいは大人)の気持ち、感情だということ。

 

たとえば、十分な食事があるか、お小遣いがあるか、塾にいけるお金があるか、部活に必要な道具があるか、自分の部屋があるか、携帯電話を持っているか...

もちろん、そういったものを持っているかそうではないか自体に目を向けることも大事なことだと思います。

でも、この若者たちの人生に影響を与えていたのは、「無いこと」そのものではなく、そのことによる傷つき体験であったり、諦めの体験ではないかと感じました。

 

日本の相対的貧困問題を考える時、お金の有る無しの問題、モノの有る無しの問題ではなく、それによって生じるココロの問題にこそ、意識を向けなければならないのではないでしょうか。

難しいのは、ココロの問題といった瞬間、どこまでを許容できないものととらえるかは、人によって違ってくる捉えどころのないものになってしまうこと。しかし、この曖昧さを許容しながら向き合っていくのが、日本の貧困問題なのかもしれないとも思います。

 

「母子家庭は優先的に入れるんだから、公営住宅に住めばいい」、「車は贅沢だから、手放せばいい」。これは、この仕事を始める前だったならば、確実に自分の口から出ていた言葉でもある。自分自身がわからなかったものを、まだまだ不十分ではありながらも、知れるようになったからこそ、「分かりやすい貧困」を発信するよりも、「繊細で分かりにくい貧困」を大事にしていきたいと考えています。

 

これぞ1 On 1の失敗例

ちょっとタイミングを外してるかもしれませんが、組織開発で1 On 1(ワンオンワン)が注目されているみたいですね。

 

ヤフーが経営陣刷新のタイミングで導入して話題になった1 On 1。ざっくり言うと、「経験から内省して成長する」というサイクルを全社員がきちんと回していくために、上司と部下が毎週30分くらいコーチング的な関わり方をする制度。

 

いや実は、わが社もこの4月から、僕とリーダークラスのメンバーが週1で30分話すという取り組みを始めてみたんです。恥ずかしながら、1 On 1が流行っていることは知らずに、つとめびと時代にお世話になった上司がやっていると聞いて真似してみようと思っただけなんですが。

 

で、どうなったかというと、典型的な失敗例として通用するくらい、失敗しました(と自己認識しております)。たとえば・・・

 

  • 「あれはどうなった?」と、進捗管理の時間になっている。
  • 「それはこうして」と、指示ばっかりしてしまう。(その結果・・・)
  • 「これはどうしたらいいですか?」と、メンバーが毎週大量の“確認したいことリスト”を持ってくるようになる。
 
ちょっとだけ言い訳をするとですね、当初からこの毎週のミーティングは進捗管理のためと位置づけていたので、目的設定からすればズレているわけじゃないんです。
ただ、結果的にこれは何か違うぞ、、、と違和感が生まれてきた。そんなときに、ヤフーの1 On 1を知り、せっかくやるんだったらそっちの方向だよね!と、自分の中ではもやが晴れるような気持ちになりました。
 

さっそく、書店で「ヤフーの1 On 1」という書籍を購入(つとめびと時代にお世話になった会社が咬んでいたことを今更ながら知る始末)。

改めて確認できたのは、コーチング的な関わり方がベースになっていること。話したいことも相手が決める。話す内容を評価せずに、気持ちや考えを受けとめる。客観的に見える相手の状態を反映することで内省を促す。とかとか。

 

同時に、上司部下の関係の中でこれをやるのって、ものすごく上司側の自己管理が必要だよなーと感じました。だって、方針とズレていたらそれはこっちだよ、と言いたくなるし、それは自分のワガママでしょって思うことがあれば、うんうんそうかそうか、とはできないですもの。言うは易しの世界です。

 

でも、だからってグイグイ引っ張りすぎたり、ビシッと指摘しすぎたりすると、逆にメンバーの成長を阻害しちゃう。そういう状況の客観視をしながら1 On 1の場に臨むのは、非常に高度な自己管理だと思います。

 

高度なことだからこそ、上司自身も1 On 1をうける時間をつくって、経験-内省-成長のサイクルを回していくことが大事なんですよね。

「改正生活困窮者自立支援法」で子どもの支援は、こう変わる。

今日はちょっと、固めの話。

(漢字が多くて、すみません。そしてかなりマニアックです)

 

7月26日に開催された厚生労働省の生活困窮者自立支援制度全国担当者会議で、生活困窮者自立支援法(生困法)の改正内容が公表されました。

ご存知の方も多いと思いますが、生困法は2015年に施行された新しい法律で、今回の改正は3年の見直し規定に基づくものです。

この法律では、生活保護の手前にセーフティネットを設けることを目的として、福祉事務所のある自治体が自立相談支援事業(実施は必須)、就労準備支援事業(任意事業。以下同じ)、家計相談支援事業、一時生活支援事業などを実施できるようになり、子どもの学習支援事業も任意事業の一つとして位置づけられました。

任意事業の中でも、特に子どもの学習支援事業は実施自治体が増えつづけていて、少しデータは古いですが、平成28年度時点でほぼほぼ半数の423自治体が実施しています。

ちなみに、私たちが活動する宮城県は実施率が低く、平成28年度時点ではわずか21%、平成30年度時点でも40%という状況です(私たちなりに精一杯がんばってきたんですがね)。この傾向は宮城県にとどまらず、東北全体が似たり寄ったりの感じになっています。

と、いろいろ課題はあるものの、2015年の施行によって、全国に子どもの学習支援事業が拡大することに大きく寄与してきた生困法。今回の改正によって、何が変わるのか。法制定前から現場で事業をつくってきた団体の視点から、ポイントをまとめておきたいと思います。なお、ここで書いていることは、厚労省の資料をもとにした考察も多分に含まれていて、正確性を保証するものではありませんので、ご承知おきください。

 

  • 子どもの学習支援事業から、「学習・生活」支援事業へ
 
一部では不評を買ってきた、学習支援事業という名称。塾に行けない子どもに無料で勉強を教えることで貧困の連鎖から脱却させる、というロジックは、分かりやすく、社会に学習支援のムーブメントを起こすには一役買ったと思いますが、私たちも含め、クエスチョンを感じてきた団体も少なくありません。
だって、「分かりにくさ」は貧困問題の特徴そのもの。一見何も変わったところがなさそうな子どもが、実は性被害にあっていたり、ダブルワーク・トリプルワークの無理がたたって保護者が体を壊して家事ができなくなっていたり、あるいは足りない生活費を消費者金融で埋め合わせしていたり、DV被害者が一時的に生活する施設で暮らしていたり、いじめのターゲットになって死を考えていたり。貧困を背景に、ややこしくこんがらがった問題をひとりの子どもや保護者が抱えていることは珍しくありません。
そんな子どもたちに対して、頑張って勉強して、成績をあげて、偏差値の高い高校ややりたいことがやれる高校にいって自立しようぜ!というのは、いささか酷というか、子どもの視点に立った支援のあり方とはかけ離れていないでしょうか。課題-解決策の論理展開が破綻していやしないでしょうか。
もちろん、貧困と一口に言っても、さまざま状況の子どもたちがいます。特に生活上の困りごとは感じていなくて、他の子どもと同じように塾に行きたいという子どももいて、そういった子どものニーズに応えることがダメという話ではありません。大事なのは、さまざまな状態・ニーズを抱えた子どもたちにできるだけ対応できるような一律的ではないサポートのあり方と、子どもの生活の土台になる家庭の課題も含めてサポートしようとするあり方です。さらに踏み込んでしまうと、生困法に基づいて公的資金をつかうならば、より貧困の世代間連鎖に陥りやすい複合的課題を抱えた子どもたちにこそ、焦点を当てるべきなのではないかと考えています。
こういった視点に立つならば、今回の改正で「学習」に「生活」が加えられ、子どもの育成環境も含めた支援を行なうべきであることが明記されたのは、大きな前進です。
ただし、「育成環境も含めた支援」をどう捉えるかは解釈が分かれるところで、たとえば保護者と進学に関する三者面談をするといった、塾で実施している内容をそのままやることを育成環境も含めた支援としてしまうことも考えられます。実際に、法改正があることがわかっているにも関わらず、一般的な学習塾と同じ事業内容を行なっている自治体もあります。
また、「育成環境も含めた支援」を機能させるためには、社会福祉等に関する専門性をもったスタッフの配置、複合的な課題に対応するための関係機関の連携の2つが欠かせません。
 
  • 関係機関間の情報共有を行う会議体の設置

 

上の関係機関の連携をスムーズにしていく上で推進剤になりそうなのが、関係機関で情報共有をする会議体が法定されたことです。

何がいいかというと、会議体の構成機関同士であれば、支援対象者の同意なく、ケースの情報を共有できること。たとえば、ケアが必要な子どもがいたときに、多くの子どもにとって主要な関係機関・つながりである学校に対して情報共有したり、学校で把握している情報を共有してもらうことをお願いするのは、定石と言っても過言ではありません。しかし、前者はともかく、後者は一筋縄ではいかないことがあります。学校によって対応が分かれるというのが実態で、協力的な学校は子どもの情報を教えてくれる一方、学校からの一切の情報提供をシャットアウトされてしまう場合も。

こういう状況に対して、新たに法定された会議体ができることで、学校などの関係機関との情報共有がやりやすくなり、それぞれが持っている情報を組み合わせて事実に即した支援方針を考えられるようになったり、「〇〇機関は子どもとの関係が良好だから〇〇の役割を」という具合に、関係機関で役割分担をして連携プレーで対応できるようになることが期待できます。

よくある状況として、周りから見れば問題があるけれど、当の本人たちが困り感を出していないことがあります。たとえば、子どもは母親のパートナーに手をあげられることがあるようだけど、よくあることだから大丈夫と、本人も母親も問題意識を感じていない。そういう場合には、色んな関係機関が関係を保ちながら情報を共有し合い、何かあったときには連携できるチームアプローチが大切になります。

期待の一方で、たとえば学校との連携を考えたときには、どういう会議体のあり方がよいのか、悩ましさも感じます。すべての学校が入ることは現実的でない。じゃあ教育委員会が構成員になるのか。でも、教育委員会と学校の関係も外から見ると複雑なところがあり、教育委員会が右と言えば、学校がそれに従うという構造でもない。そうなると、会議体の意味も形骸化してしまう可能性があります。

ちなみに、宮城県内にはすでに数年前から関係機関の連携会議が存在しているので、そこに更に多様な関係機関が構成員として加わり、情報共有に関する法的な後押しがなされていくイメージでしょうか。

 
  • 生活困窮者の定義の明確化
 
これまで、生活困窮の定義は少しあいまいなところがありました。それによって、自治体によっては、生活保護を受けていること、児童扶養手当を受給していること、など子どもの参加要件が硬直化し、実質的に困窮度が高く、子どもが将来も困窮に陥るリスクが高いにも関わらず、受け入れることができないというケースも発生しました。
たとえば、両親ともそろっているけれど、精神疾患があり、どちらも働いてはすぐ辞めるの繰り返しで収入は不安定。本来は生活保護水準であるにも関わらず、生活保護への心理的な抵抗が大きくて申請はしない。でも、子どもは学校も中退し、もう数ヶ月何もしないで過ごしている。。。
今回の定義では、「就労の状況、心身の状況、地域社会との関係性その他の事情により、現に経済的に困窮し、最低限度の生活を維持することができなくなるおそれのある者をいう。 」というように、就労の状況以外も明示されたことで、実質的な困窮度に応じて利用者を受けいれやすくなる可能性が高まりました。
問題は、7人に1人が貧困といわれる中、そもそも現場で受けとめられるキャパシティには限界があり、参加要件を絞らなければパンクしてしまったり、相対的に困窮度合いの低い層で定員になってしまう可能性があるので、現場の運用レベルで考えると対象者を絞らざるを得ないという事情があることです。また、実質的には困窮しているかどうかをどういった基準で判断するのかが難しいという状況もあります。自治体が提供するサービスであるならば、客観的なモノサシがないと説明責任を果たせないという理屈には、確かにと頷ける部分があります。
 
  • 次期改正での必須化に向けた議論の可能性
 
これは、今回の改正ですぐに変わるというものではありませんが、参議院厚生労働委員会の附帯決議では、「各任意事業の実施率を高めつつ、地方自治体間格差の是正を図りながら、次期改正における必須化に向けた検討を行うこと。」という文言が明記されました。
冒頭のとおり、平成28年度時点での学習支援事業の実施率は半分程度です。財政力のない自治体、人口10万人未満の自治体では、特に事業の実施が難しい状況があります。僕が知っている範囲でも、担当課はこの事業の必要性を十分理解しながら、財政部局のカベ、首長のカベが突破できずに未実施のままという状況が多々あります。「学習支援事業が必須事業になればいいのに」と口にする福祉部局の担当者も少なくありません。
個人的には、必須化が手放しで喜べるかというと、懸念もあるというのが正直なところです。まず、事業の柔軟性が損なわれてしまう可能性があること。生困法の学習支援事業は面白いつくりになっていて、大まかな方針や加算事業は定められているものの、具体的な事業設計は各自治体の状況にあわせて柔軟に組み立てることができます(さいたまユースサポートネットの青砥代表は「フレーム法」と表現されていました)。それによって、学校の中で学習支援事業を実施する自治体があったり、フリースクールを生困法で運営する自治体があったり、利便性の悪い郡部で訪問支援だけを実施する自治体があったりと、さまざまな創意工夫を生み出してきました。自治体が型どおりの仕様書を出して、下請けに出すという構造ではなく、現場のNPOなどがそれぞれの強みや地域の実態・状況にあった提案をして、自治体と協働で事業をつくっていくという、市民社会の醍醐味みたいなものが実現されやすい制度だと思います。それが必須化となった場合に、一律のやり方、一律の指標による管理にならないか、不安があります。
また、事業を実施しているというアリバイ作りのために、形だけの事業が広がってしまわないかという懸念もあります。実際にある自治体では、学習支援事業をやっている自治体が増えている中、自分たちだけやらないのはまずい。でも予算はかけたくないので、数十万円でやれる方法を探す、という話になりかけたことも。本来の目的・趣旨に照らして、効果の出にくい内容で形だけ事業が広がってしまうならば、本末転倒です。
とはいえ、必須化でもしなければ動かなそうな自治体があるのも実際のところ。自治体と対等に話し合い、事業をつくっていけるNPOなどが増えた段階で、フレーム法の良さを残すよう十分に注意しながら必須化、というのが理想ではないかと、感じるところです。
 
ちょっと備忘録的に、と軽い気持ちで書き始めて、数時間。なかなかのボリュームになってしまいました。。。
ここで書いた内容以外にも、生活保護を受けていても大学に進学しやすくなったり、さまざまな改正がなされていますので、関心のある方はこちらのページをご参照ください。
 

人生を共有し合うセッション

「支援者同士が、お互いの成育歴とかどんな人間か理解する機会があるといいです」。

スタッフからの提案で、相互理解セッションを開催しました。

 

提案をしてくれたスタッフは、児童養護施設で働いた経験もあるのですが、その施設では支援員同士がお互いを理解することにかなり時間をかけていたそうです。

 

普段なかなか話す機会のない自分のことを開示をするために、いつもと違った雰囲気がいいだろう。

ということで、秋保にある木の家というロッジを借りました。

写真をご覧いただくと分かる通り、自然が豊かで、プライバシーも守られる環境で、研修にはもってこいですね。

 

安心して自己開示できるように、「守秘義務」、「評価しない」、「無理に話さない」というグランドルールを確認。

その後は、順番に人生のハイライトをその時の感情とともに、共有していく時間を持ちました。

 

もちろん守秘義務があるのでご紹介することはできませんが、家族との関係が今の仕事につながっているスタッフが多いことに改めて気づきました。

深い話を開示してくれるスタッフもいて、正直驚いたりもしましたが、みんなを信頼して話してくれたことが嬉しかったです。

 

参加したスタッフそれぞれにとって、この組織が大事な場なんだと感じ、今まで以上にみんなにとっていい組織をつくっていきたいという気持ちが湧いてきました。

 

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NPOなのに、拡大することが大事な理由

最近はというと、、、

新しい事業を立ち上げる準備をしながら、順調にカベにぶつかってます。

こういう時に限って「なんとかしてやるぜ」とアドレナリンがあふれるのは、やっぱり今の仕事が向いているんでしょうかね。。。

 

と、忙しいことを言い訳に、せっかく始めたブログもすっかりご無沙汰してしまいました。

続けるのって、ほんとにカンタンじゃないですね。

「更新されてないかなって、頻繁にブログを覗いてますよ」って声をかけてくれた職員に、陰口をたたかれてるんじゃないかと気になって仕方がない日々です。

 

ブログは続いていませんが、経営は順調につづいています。

先週の理事会で、7期目となる2017年度の事業報告、決算を承認いただきました。

(ムリヤリ感満点の導入ですみません。久しぶりで腕が衰えてます笑)

 

2017年度は、宮城県など複数の自治体との協働事業がはじまったことが影響して、アスイクが事業を行なうエリアがかなり広がりました。

予算規模も対前年度140%くらいの増加となり、雇用するスタッフやボランティアもそれなりに増えています。

 

もちろんNPOはミッション(ビジョン)・オリエンテッドなので、大きくなることが目的ではありません。

しかし実際に経営をしてみると、以下のような理由から大きくなっていくことも大事だな、と思う今日この頃です。

 

  • ボランティアも含めたスタッフや、事業に関わってくれる組織が増えることで、社会への影響力が増し、貧困に対する社会的な関心も高まっていく。(この点はもっと言葉を足して、改めて整理したいと思ってます)
 
  • 同じ事業の繰り返しになると、組織に停滞感が生まれて、職員が現状維持志向になってチャレンジを避けたり、キャリアの先行きが見えなくなって優秀な職員ほど離職するようになってしまう(のではないか、と僕が恐れている)。
 
  • 企画公募において、特に自治体は、組織の規模や安定性を気にする。全国展開の企業と戦うことになったとき、組織の規模が結果を左右するファクターになることもある。(これについては、実際にある自治体の部長クラスから「やっぱりどうなるかわからないNPOは組む相手として不安」と言われたことがあります)
 
  • 職員の能力開発を進めていく上で、あるいは人間関係の問題などが出たときに対応する上で、ある程度の規模がないとオプションがなくて苦しい。
 
  • 事業をやればやるほど、足りないもの、あったらいいものが見えてくる。
 
  • 代表が新しいことをどんどんやってみることが好き(笑)。
 

言うまでもなく、すべてのNPOがどんどん事業を拡大するべきだとは思ってませんし、それぞれの組織が掲げる目的や色に合った方向性が尊重されるべきです。当然、規模が大きくなることの弊害、難しさも出てきます。

弊害というか、新しく生まれてくる課題については、また別の機会に書いてみたいなと思います。

 

どんどん書きたいことが出てきますね。。。自分の首を絞めてる感じが。。。

 

中途半端な締め方になってしまいましたが、2017年度の事業報告は下記からご覧いただけると嬉しいです。

 

asuiku.org